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惜別の歌、4番まで聞いてほしい、今、世界が混沌としている中、二度と若者を戦場に向かわせてはならない、とにかく我が国に手出しをできないようにする事、政治家よ、真剣に国の舵取りをせよ、我が国の未来は東南アジアの未来である、しっかりせよ、
こんにちは。コメント有難うございます。元歌詞が姉と妹の別れを歌ったものだけに、3番は内容がぴったり来ないような気がします。
そのとおりです。異論なし
@@tak-si 2:49
この歌は単に中央大の学生の歌にとどまらず多くの人に愛されるに足る、素晴らしい歌曲です。大詩人島崎藤村の作品ですから。作曲者が中央大出身ということはよく判っています。
中央大学の第二校歌として50年前によく歌ってました。ほんとにいい歌ですね、今でも胸が熱くなります。
若い頃、勤務先で、同僚達と、歌ったことを思い出し、懐かしい気持ちで胸が、締め付けられました。
中央大学の学生歌だとは知りませんでした。凄く悲しい歌ですね。きっと歌の中で思いが込められているのですね
人との別れがつづいています。この人の世の常なるもが心に染みます。惜別の歌を歌いながら生きたいと思います。
幼い時から何時も心の中を流れている歌....
旧制の学生歌はほんと沁みるなぁ
「世に知られた惜別の歌」ですね。作曲者は藤江英輔氏(中大卒)・元「新潮社編集長」です。歌詞は島崎藤村氏です。「中大」の言葉が出ないので、万人の愛唱歌になりましたね。4番が入っているのは「貴重」です。74歳福岡在住
45年卒業です。年に1回の徳島県白門会では必ず最後は惜別の歌で閉めます。皆で肩を組んで唄うとき中央大学卒業に誇りを感じます。本当に良い歌です。
53年卒業です。今日は、学員会東京江戸川区支部の総会、講演会、懇親会があり、惜別の唄で締めました。ジーンときますね。
もう60年近く前になるが、大学入学し、校歌の前にこの歌を覚えさせられた。校歌はすっかり忘れたがこの歌はいまだに覚えている。
小学校の卒業式ではじめて聴きましたなんて素敵な歌だと感激しましたもうすぐ七十のおじさんの推すすめの歌です
50年前、沖縄の小さな島の学校の音楽の時間に先生が歌っていたのを聞き好きになりました。縁あり、娘が中大生となり学生歌と知りました。すてきなメロディと歌詞、何時も聞かせてもらっています。
こんにちは。コメント有難うございます。
急死された高校時代の友の初盆に 心の友でしたが歌い供養に惜別の唄を 遠き別れに 🎤天国へ届けと声つまらせ唄わせて貰いました🎵49日を迎えてないので初盆は来年どの事 来年迄月命日には捧げます ポッカリ穴が空きました😪
この女性の方の歌も切々としていいですねー
高校の教頭先生が中大生で学徒出陣で出征した方で、惜別の唄を聴くと、目が潤んでいました。中大に進学し、卒業式では全卒業生が合唱し、私は涙が止まりませんでした。中大の4年間は、我が財産です。
いろんな人がカバーして歌っている惜別の歌島崎藤村の原曲だったのですね。さすがいい曲だと納得しました。本当にしみじみしみて来ます。
こんばんは。コメント有難うございます。
島﨑藤村の歌詞が素晴らしい。
懐かしい大切な歌をありがとうm(_ _)m藤村の詞、思いがけず 最近三番の歌詞を知り 若かりし頃一番だけしか知らず、勿体無い事でした。遠くほの甘い??思い出です😍4番は今始めて知りました。
歌のなかに、全て隠れてしまいました本当の気持ちは当時の、行き場ない学生たちだけの気持ちだけと思います。
昔の先輩たちの無念を思うと切ないです。
付属から大学までよく歌いました。どちらかと言えば卒業してからの方が歌いました。付属のとき3年間担任だった渡辺哲夫先生は藤村に詳しい方でした。私は今年で70歳になりました。懐かし過ぎますね。
作詞者は私生活を何だかんだいわれるが日本語を操る能力は凄いと言わざるを得ない!
なんと美しい歌声に何とも哀愁を感じます❗
しまさや
島﨑藤村の詩歌が素晴らしいです。特に四番は聞いて欲しいです。
独特な歌い方でこれまたよさがあります。
私も中央大の学生でした。この歌は高校時代から友人、仲間達とよく歌ったものです。懐かしいですね。
歌詞を流用しているので戦地へ送る歌としてはしっくりしない面が感じられますが曲は素晴らしいですね。似たようなコンセプトの歌に斐太高校の「巴城ヶ丘別離の歌」を始め多くの寮歌がありますね。「鈴懸の径」が立教大学とこのような関係で歌われいたというのを聞いたことがありますが成り立ちが違いますね。
従兄が特攻隊で戦死した事を想い出します。中央大学在学中でした。私は学童疎開で長野県高遠町にいました。1944年です。今すかいらーくのモーニングで聴いています。平和は良いですね。
今の平和な時代に生まれた人は、戦争時代を経験した人とは違った平和のとらえ方をされるのでしょうね。
今春から中大経済学部に入学した者です。自分がどういう大学に入ったのか、この唄を聴く度にしみじみと感じます。長き歴史ある伝統名門校、中央大学の学生になれたことを誇りに思っています。中央大学の経営者と僕ら中央大生が協力し、この長く続いている伝統を廃れさせないように、中央大学の学員の名に恥じぬよう大学生活4年間を過ごさなければならないと実感しました。拙い文章すいませんでした。
ウラジミール・プーチン様何が拙いものですか。言葉遣いは目に優しく、また読みやすく格調高く。立派なお志を読ませていただき、こんな方がこれからの日本を背負ってくださるのだと、心強く思います。ずいぶん昔に大学時代を終えた私には、中央大学の法学部生の友人がいました。最近は私の母校も他の大学でも、新しく耳慣れない学部ができたりして、昔馴染んだ学部名をひたすら懐かしむのみです。こんな時期に大学生になられたということは、大学には行けずにオンライン授業が主流でしょうか?キャンパスでの学生同士の交流や教える側と教わる側の活気ある授業を思う存分楽しめた身としましては、お気の毒にとしか申しようがありませんが、きっと顔と顔を合わせる時がくることでしょう。そのようにお祈りいたします。どうかお身体をお大切に、大学生活を満喫なさってください。陰ながら応援し、ご活躍されるのを楽しみにしております。
去年入学した娘が中央大学にご縁が有ったと感じている母です。本当に同感ですね。
@@camomille9452 様2年前にこのコメントを書いたものです。ご返信頂き本当にありがとうございます。心がこもった文章、丁重に読ませていただきました。初年度から2年間ずっとオンライン授業で、人と関わる機会が全くございませんでした。ですが3年時から対面授業が本格化し、今では友人と楽しい学校生活を送っております。大学の卒業後は海外就職を目指すため、ワーホリを使って語学力を磨いたのち、カレッジへ進学し永住権にエントリーするビジョンを組みました。中央大学を選んだからこそ、この進路を見つけることができた。そういった意味で、この大学受験を通して最高の出会いができたと。今では胸を張って言うことができます。長き伝統ある名門校の一員である意識を常に忘れず。そしてその学員の名に恥じぬよう。一度きりしかない人生。私が本気でやりたいことを、徹底的に追求する所存でございます。そして最期永い眠りにつく時、楽しいことや辛いこと全てを含めて心の底から「やりきった」「満足した」そう言えるような人生を。妥協することなく追い求めていきたいと考えております。
@@Ghost-Hunter-Keema 様この歌を再び聴きに来て、あなた様からのご返信に気づきました。ありがとうございます。長らく気づかなかったことをお詫び申します。大きな夢に向かっていらっしゃるのですね。心強く思います。心より応援し幸多かれと祈ります。水も空気も人心も、すべてが日本とは違うであろう外国での生活をなさるのであれば、健康には一層のこと充分にご留意ください。日本のためにご尽力いただけることを有り難く心に刻みます。近年あまり目にすることの無い格調高い文章に、あなた様にそなわった教養の深さを思い、多事ながら嬉しく思います。ありがとうございました。
中央大の校歌とは知りませんでしたが、昔から知ってました。良き校歌を得て幸せですよ。人生の誇りなりますね。
私は昭和45年卒で4番まできけて嬉しいです懐かしさで思い出と涙がでます
今から60年前に初めて買ったレコードです。音痴の私が3番まで歌詞を覚えた曲です。4番まであるのは知りませんでした。今でも知らず知らずに口づさんでます。❤🎉
縁があって去年娘が、中大生になりました。私自身は大学には縁が無かったですが、この曲を知りました。とても心に染みる曲ですね。
お嬢様の幸運を祈ります・・。中大は質実剛健の真面目な大学です。S46・学員。
@@toumasa6537 様ご返信ありがとうございました!😊
@@NA-de2je 様。有難うございます。戦前からの古い大学ですから、企業の先輩も多く「女性の就職」も好調のようですね。都道府県・市町村の行政職員(地方公務員)も数ではトップクラスです。ご健勝でお過ごしください。76歳福岡在住。
@@toumasa6537 様シングルマザーです。今一人娘公務員へ向けての勉学をしております。中央大学さんで良かったと思っております😊ご返信ありがとうございました😊😊
@@NA-de2je 様。こちらこそ・ありがとうございました。
中央大学の学生歌とは知りませんでした。別れが学生歌になったのはあまり例を見ないかもしれなせん。男の分かれの心は良く理解できます。そういう世代です。文語は好きです。
中央大学の歌とは知りませんでした78才恥ずかしい!でも誇りです
作詞が島崎藤村とは知らなかったな! 貴重ですな。
惜別の歌は、他の有名歌手がレコーディングしたものもありますが、緑咲香澄さんの歌が 実際中央大学の学生の間で歌われている歌い方に一番近いと思いました。学生やOBの間では宴の締めに欠かせない歌で、現(=第3)校歌、現(=第2)応援歌、惜別の歌の順に歌うのが定番となっているので、結婚祝いの会でも平気で歌ってしまうという話もあるぐらいです。ただ、作曲者は4番まで歌ってほしいと希望したという話が中央大学が出した歌集の中にありますが、実際には学生の間では3番までしか歌わないのが伝統のようです。なお、その歌集では「予科の歌」の中に分類されて掲載されていますので、他校の例に倣うと、「中央大学予科惜別の歌」が正しいのかもしれません。
コメント有難うございます。知らないことが多々あり、興味深く拝見しました。おかげさまでこの歌に対する知識が増えました。旧制高等学校・大学予科の歌の中には別れの歌が幾つもありますが、生活を共にした学友との単なる別れ、いわゆる再会しようと思えばできるもの。それと戦局が厳しくなり始めた頃から作られたこの手の歌には「(学徒出陣のため)生きて二度とは会えないかも知れない」という思いが感じられるものがあり、藤村の詩を流用したこの歌の歌詞からは前者のように取れますが、作曲者の置かれた立場、当時の世相から後者の方だと思います。
昭和20年に全生徒召集出陣を前にして作られた台北帝大予科の「しづもり深き」という別れの歌がありますが、寮歌を数多くご自身で歌っておられるTakechanさんが「この歌は涙なくしては歌うことは出来ない。本当に悲しい歌である」と言っておられ、5番の所では涙声でかすれるようになり、とても感動したことがあります。惜別の歌も本来はそのような気持ちで歌うのかもしれません。
小林旭さんも歌っています。コロムビアバージョンが、この曲に近いですね!
香澄さんの歌声は心に深く残りました、なかなか良い歌ですよ。色々な場面が目に浮かびます、やはり選らばた香澄の歌声ですよ😃
有難うございます。
惜別の歌、作詞 島崎藤村、中央大学学生歌で卒業式、キャンプ等々、で唄いました、懐かしいです。
日本語がとても美しい詩だと思います。曲も良いし,作詞者・作曲者を見るとなるほどと思いました。現在の歌曲は格好が良いのか分からないけど字余り,早口でしか歌えない,やたらと英語を入れる風潮に嫌気が差します。
この唄を聴くと…遥か42年前の卒業式を思い出します…
私は46年前の卒業生です。
中央母校の卒業式で斉唱しました。戦争に時の学友との別れ歌惜別いい日本語ですね。大学が今問われる中伝統日本語大事ですね。
学生時代を思い出してなつかしい気持ちが甦ってきます。
学生時代の思い出は、良きにせよ悪しきにせよ懐かしいものですね。
ゲンザイの歌は解り😅辛くこの歌を聞くと、良い歌は年月が経つても心がふるえますありがとうございます🎉❤
戦地へ赴く学生に贈る詩ですか、、、、もの悲しい声と歌い方で心情が伝わってきます。
この歌を卒業時の学友との単なる別れの歌と思っている人がほとんどではないでしょうか。
違いますね!
香澄さん、歌声に、ぴったり感動します、
中央大学卒の義兄がよく歌っておりました。胸を打つ静かで心に響く歌です。東京、港区白金の明治学院大学の校歌はここで学んだ島崎藤村の作詞です。「人の世の若き命のあさぼらけ・・・」で始まるこの詩も静かで温情のこもった心打つ歌です。
素晴らしいね😃 今年八十三に為ります 学生歌😆💕です
日本人の心ですね‥
門田隆将著「康子十九歳戦禍の日記」第九章に作曲者藤江英輔氏が作曲した経緯が書かれています。東京陸軍第一造兵廠で戦況が悪化する中で勤労動員で働いていた中央大学予科の学生が次々に、戦地へ赴くその別れに島崎藤村の詩集「若菜集」にある「高楼」の歌詞(我が姉)を(我が友)に替えて、曲をつけ送別会で歌ったもの。それを同じ造兵廠で勤労動員で働いていた東京女子高等師範学校専攻科の女学生に伝わり、広がったとのこと。この本を読まれることをお薦めいたします。
Haruyama Hirokiさん、こんにちは。詳しい解説を有難うございます。今の中央大学の学生でこのことを知って歌っている人はほとんどいないでしょうね。
Haruyama Hiroki 愛の讃歌愛の讃歌
それは知りませんでした、4番歌詞が有る事もこれで知りました。小林旭も歌っているけど3番迄ですからね
は
教えていただきありがとうございます。書店にて探してみます。
この歌を聞けば 若逝し親友〜中央大卆〜を想い出し 泪滲む。三番では 恋人の 敬子さんの顔が浮ぶ。遠い遠い青春が帰ってくる。
唱歌になってる歌詞の内容を感情を込めて歌うべし
昭和30年代には「惜別のうた」「琵琶湖周航の歌」「北上夜曲」「雪山讃歌」「あざみの歌」「北帰行」や旧制高校の寮歌など抒情歌といわれる分野の歌がよく歌われていた。
自分が30台の終わり頃転勤で遠く離れる地に行く時同じ職場の同僚逹が送別の時唄ってくれたのがこの歌でした。
惜別の歌 母親の告別式で斎場の方が、ナレーションで語って下さいました、今も、この曲を聴くと胸が熱くなります。しかし、今、皆さんのコメントを見させて頂くと 意味が違うのですね。中央大学の第二校歌とか、君が代の第二国歌が 海ゆかば、何故か心が締めつけられます。
戦前で 友 といえば男のはず。しかし、くれないの唇、みどりの黒髪、これは女性の描写。 TAK SI 様のご説明により、子供のころの謎が50年目にとけました。感謝。
この歌聴いている
緑咲香澄(みどりざき かすみ)とは、CeVIOプロジェクトのイメージキャラクター、また合成音声のライブラリである。
戦地に行く友を歌った曲戦争は無益やってはならないしかし、戦争は無くならない愛する家族に健康と安定と幸せを願う守るは愛のみ
御茶ノ水の最後の卒業生です。あの頃が昨日のようです。
4年生だけがお茶ノ水に残ったあの年に私も居ました。前年までと比べ閑散としていた校舎。名曲喫茶「ウィーン」は外構のみいまも残っています。
53年の卒業生です。先日、ウイーンの前を通ったら、取り壊されて別の建物になっていました。
昭和18年に、歌われました(~▽~@)♪♪♪中央大学のお茶の水に白門が中央大学手前の右手に日大と明治大学が有りました。後に中央は、八王子へ移転しましたが?
1978年に移転しましたね。
私は、中央大学の法学部 を、司法試験を、取る為に2年留年して、39年3月に、卒業しました! 7年のインターン期間が長くて、弁護士の資格は、取得しませんでした!今、思えば、換えって良かったのかと(笑)御茶ノ水に、明治大学&日本大学があり、その先に、白門の中央大学がありました!現在は、八王子に移転して仕舞いましたが、懐かしいですね(笑)
@@春山知吉-v9n 中大が一番輝いていた頃のご卒業ですね。歴史上最も難しかった旧司法試験合格者の30%以上は中大生でしたよね。40%弱の年もありましたね。私は昭和37年生まれの経済学部卒業生です。大先輩からのメッセージをありがとうございました。
みどりの黒髪を・・・このくだり心に響きます。
旧制高校の学生歌をおじいちゃんたちの集団が交代で舞台に登場し、斉唱する行事がかつてありましたが、歌う人が限られてきて無くなってしまったことで、一つの区切りを感じたものです。
かつて武道館や日比谷公会堂で開催されていた日本寮歌祭は今も続いています。さすがに旧制卒の先輩方は参加できなくなりましたが、各校の後輩たちによって歌い継がれています。コロナ明けの今年は4年ぶりに「第63回日本寮歌祭」として復活いたします。中央大の方も参加されていますよ。
中大OBのコメントが多いですね。私も1987年経済学部卒業生です。入学時はケインズ経済学の川口弘学長で、卒業時は憲法の川添利幸学長でした。
中央大学の学生の歌と初めて知りました 昭和40年中学卒業の日教室で 惜別の歌を担任が歌ってお別れしてくれました 感動を忘れられない 泣きながら学校を後にしました。
あの曲もこの曲も寮歌でした○イメージ→腰手拭、学ラン隙のない帝大、バンカラ○暫くして学徒出陣も○ダミ声で政治を優しく彼女を○今の学生さんをどうこうではありませんが○若き血が燃える』青春○高卒偏差値偏差値ランク外の私が感じました○学生さんが気分害されたらごめんなさい
難聴は少しずつ良くなっているようにかんじます。合唱
良い歌ですね学生さんが歌ているのも良いです
同僚の転勤送別会で歌って送り出しました、その後、友は定年に成り元気してるかな?
知らなかった😭中央大学の学生歌とは🙏知ってたら中央大学を受験してた😢
日本に惜別の歌有り、ベトナムに遠い思い出が有るとても心にしみる、フィリピンで34歳で戦死した祖父の弟を思い出す、彼は昭和20年4月24日、34歳で戦死下、彼らは祖国の為、愛する家族を守るため、海で、大空で、そして陸で誓った、戦争には負けたが、東南アジアは過酷な白人支配から独立できた、彼らと闘った国は日本だけである
だからわが祖国、日本国は諸外国特に非白人国家から尊敬されるのですね。
45年卒業です。この歌の前に情緒あるセリフがあります。学生のころは4年生が語ってくれましたが思いだせません。ご存知のかたはコメント欄に書いてくれませんか。是非お願いいたします。
作曲者で、ある意味作詞者でもある藤江英輔氏は、2015年10月23日に永眠されました。「わが姉」を「わが友」と改作したことはけしかぬという人もおり、小鳩くるみは、「わが姉」と歌っています。しかし、中央大学でレコーディングされる際、島崎藤村の孫にあたる方から、「わが友」とすることについて承諾を得ています。起承転結、藤江氏は四番こそを戦地に赴く友に送りたかったのだと思います。それが、小林旭がレコディングする際、これを恋愛の歌と取り違えたために三番までしか歌われませんでした。この時のレコードが大ヒットし、映画(ヤクザと縁のある体育教師が、学校を辞める時、同僚の女教師を想い浮かべて歌う)にもなったので、中央大学の学生でも、「何で卒業式に小林旭の歌をうたうのか?」と不思議がる者が後をたちませんでした。それも、今では昔話ですね。下記の所に、藤江氏の講演記録が載っています。蛇足ながら、倍賞千恵子さんの「惜別の歌」が、三番までですが、一番よいですね。合掌。www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/10/2010_04-06.pdf?1556549944628
2010年中央大学「創立125周年」に藤江氏によりこの歌にまつわる公演が行われたとき、氏の後輩であるジャーナリストの門田隆将氏も藤江氏とこの歌のことで、公演をされていますね。
若き夢を通信教育でみたし、大阪支部長の障害の女性 卒業されて社会で活躍されているでしよう😆
まだ、この動画残っていたか・・。
私も昭和45年卒ですが学生時代を思い出す
懐かしいですね!ありがとう(笑)
中央大学の歌とは知らなかった
美しい日本語
もう少し昔の、地方の「旧制高校」の寮歌かと思っていましたが、「昭和19年」東京の中央大学と知って驚きました小林旭さんの歌唱で知っています。
も少し細かく言いますと、「予科」とは大学に入る前の段階にあり高校教育をするところですね。旧制高校と同様なものです。大学により「予科制」を設けている所はそこを卒業すれば無試験で同大学へ進学できました。この歌はその「予科」の生徒が作った死別を含んだ別れの歌でしょうが、小林旭の歌とは真の意味は違うかもしれませんね。
御茶ノ水にあった駿河台校舎を思い出します小林旭の歌が懐かしいです
予科って夜間部ですか?または短大?そういえば、むかし予科練というのもあったな。移転すると、別の大学になるな。
昔は大学へ進学するには、旧制高校を経由するのが一般的でした。大学によってはこの高校と同様な学校を運営するところもあり、それを予科と言っていました。卒業すると優先的にその大学に入学できるのです。今でいう付属高校のようなものです。
専門部というのもありましたな。
『スクール☆ウォーズ』でこの歌を知りました。
歌詞を中国語に訳してみました。 「惜別之歌」難捨吾友將遠行登此高樓為惜別吾友切勿心傷悲旅途行裝宜備妥自古以來說離別是此人間平常事放眼眺望河水流猶如夢中淚潸潸清澈明亮君雙眸色澤動人君紅唇烏黑亮麗君秀髮別後何日能復見
父は、昭和19年中央大予科卒業。そして海軍予備学生志願。同期生か、後輩が作られたの曲かな?もう他界しているのでわかりません。
とおきわおきわかれにたえなねて、、そして試練をどのように耐えたのか、、私には不明である。
若くして亡くした息子を思う毎日です。
あなた様に幸あれ😊
大叔父が中央大学、法学出て判事になった頃かしら?
二度と、がくとしゆつじんをおきかくしないようにわたしわかなしくおもいます。
香澄ちゃん、牧水の白鳥の歌もいいよ、月見草の丘なんかも香澄ちゃんの歌ですね、まだいっぱいありそう、
「月見草の丘」とは昭和29年にビクターの山田礼子が歌ったものでしょうか。
詳しくはわかりませんが。鮫島有美子さんの歌が今はは一番すばらしいと思います、遥かに海の見える丘、月の雫を吸って咲くではじまるうたです。
ああそれは「月見草の花」という歌ですね。
小笠原俊二 unjo I
これ図書館の閉館音楽に使われてて、帰りの夜道怖く
はは…ローカル色が豊かですね… どちらでしょうか… 近くの川を教えてください。
戦争を止めさせるのに必要なのは にほん の独立だ。
くせのない歌もいいもんだな。
小林旭さんの歌だとばかり思ってました。
松田聖子も歌ったのだろうか?通教 法学部卒業
卒業式で全卒業生が歌います。
こんな国は亜細亜に日本以外あったか?
ちあき なおみさんが この 歌っていたの 知らなかった じいん と くる。
🐱
ボーカロイドみたいな歌唱ですね。これ、音源の問題?それとも、こういう特異な歌唱ができる歌手なのでしょうか。。。。って、調べたら、ボカロだった。自問自答。
なんとも言えんな~~~~
別れるのは、愛しい女性なんだよね。君という言い方も当時は女性あての言い回し旧制の高校大學では男ばかり貴様が普通だから、
別れるのは戦場へ征く学友です。寮歌等にも学友のことを「君」と表現するのはよく見られることです。
@@tak-si 様ご指摘ありがと卯ございます。現代的な感性で解釈したりして、時代背景に視点のゆかない投稿でした。
@@和泉昌俊-k2j さん、こんにちは。私は旧制高校が終焉した昭和25年は小学生でした。寮の学校生活とは無縁です。新制高校では逍遥歌を歌ういながらストームを数回経験したことはあります。旧制高校の様子を詳しく知りたくても、人はいないし、書物を主としたものしか無く、隔靴掻痒の思いです。
@@tak-si 様私は昭和30年生まれです。父親は旧制弘前高校から北大へとゆき話しをねだりました。そして旧制高校に憧れめいたものをもっているんです。ストームやったなんて羨ましいです。ちょっとだけ、お話ししたくなり、返信させていただきました。
@@和泉昌俊-k2jさん、こんにちは。旧制弘前高校といえば平成になっても、創立記念歌が作られているのですね。学校設立地の選定にあたっては青森と競り合って勝った喜びは大きかったと思います。卒業生は東京・京都帝大や近くの東北・北海道帝大へ進んだのでしょう。
緑咲香澄さん歌声が弱々しく聞くに堪えないので申し訳ないが今一度元気を出して歌って下さいお願いします。
別れの唄を元気に謳うのは… ?私は風情があると思います。人それぞれ感性の違いですね。
緑咲香澄さんの歌が、中大学生歌に、一番近い歌い方です。あなたは、中大卒、でしたら恥ずかしい。惜別の歌の、気持ちが
小林旭の唱う惜別の歌
体に痛い目を合わせ教える?…「痛い目の慈悲」が必要だろう?
??
あまりのへたくそさにビックリだ。よくこんなのを恥ずかしくもなくアップできたもんだ。
hosey aarre 昔のに返信するのもあれなのですが、緑咲香澄と調べてみてはいかがでしょうか?私は上手く編集されていると思いますが。
戦場に赴く学友を偲んで送る歌、元気に歌ってどうする気だ?この歌い方がこの歌に一番合っており、歌の趣旨を一番よくくみ取っていると思うが。けだし、名曲、名唱である。
hosey
@@Chu2007pae 同感です。
藤村の元の詩は、嫁ぐ姉を妹が送る歌だから、女性が歌うとこうなる。
惜別の歌、4番まで聞いてほしい、今、世界が混沌としている中、二度と若者を戦場に向かわせてはならない、とにかく我が国に手出しをできないようにする事、政治家よ、真剣に国の舵取りをせよ、我が国の未来は東南アジアの未来である、しっかりせよ、
こんにちは。コメント有難うございます。
元歌詞が姉と妹の別れを歌ったものだけに、3番は内容がぴったり来ないような気がします。
そのとおりです。異論なし
@@tak-si 2:49
この歌は単に中央大の学生の歌にとどまらず多くの人に愛されるに足る、素晴らしい歌曲です。大詩人島崎藤村の作品ですから。作曲者が中央大出身ということはよく判っています。
中央大学の第二校歌として50年前によく歌ってました。ほんとにいい歌ですね、今でも胸が熱くなります。
若い頃、勤務先で、同僚達と、歌ったことを思い出し、懐かしい気持ちで胸が、締め付けられました。
中央大学の学生歌だとは知りませんでした。凄く悲しい歌ですね。きっと歌の中で思いが込められているのですね
人との別れがつづいています。この人の世の常なる
もが心に染みます。惜別の歌を歌いながら生きたいと思います。
幼い時から何時も心の中を流れている歌....
旧制の学生歌はほんと沁みるなぁ
「世に知られた惜別の歌」ですね。作曲者は藤江英輔氏(中大卒)・元「新潮社編集長」です。歌詞は島崎藤村氏です。「中大」の言葉が出ないので、万人の愛唱歌になりましたね。4番が入っているのは「貴重」です。74歳福岡在住
45年卒業です。年に1回の徳島県白門会では必ず最後は惜別の歌で閉めます。皆で肩を組んで唄うとき中央大学卒業に誇りを感じます。本当に良い歌です。
53年卒業です。今日は、学員会東京江戸川区支部の総会、講演会、懇親会があり、惜別の唄で締めました。ジーンときますね。
もう60年近く前になるが、大学入学し、校歌の前にこの歌を覚えさせられた。校歌はすっかり忘れたがこの歌はいまだに覚えている。
小学校の卒業式ではじめて聴きましたなんて素敵な歌だと感激しましたもうすぐ七十のおじさんの推すすめの歌です
50年前、沖縄の小さな島の学校の音楽の時間に先生が歌っていたのを聞き好きになりました。
縁あり、娘が中大生となり学生歌と知りました。
すてきなメロディと歌詞、何時も聞かせてもらっています。
こんにちは。コメント有難うございます。
急死された高校時代の友の初盆に 心の友でしたが歌い供養に惜別の唄を 遠き別れに 🎤天国へ届けと声つまらせ唄わせて貰いました🎵49日を迎えてないので初盆は来年どの事 来年迄月命日には捧げます ポッカリ穴が空きました😪
この女性の方の歌も切々としていいですねー
高校の教頭先生が中大生で学徒出陣で出征した方で、惜別の唄を聴くと、目が潤んでいました。中大に進学し、卒業式では全卒業生が合唱し、私は涙が止まりませんでした。中大の4年間は、我が財産です。
いろんな人がカバーして歌っている惜別の歌島崎藤村の原曲だったのですね。さすがいい曲だと納得しました。本当にしみじみしみて来ます。
こんばんは。コメント有難うございます。
島﨑藤村の歌詞が素晴らしい。
懐かしい大切な歌をありがとうm(_ _)m
藤村の詞、思いがけず 最近三番の歌詞を知り 若かりし頃一番だけしか知らず、勿体無い事でした。遠くほの甘い??思い出です😍
4番は今始めて知りました。
歌のなかに、全て隠れてしまいました
本当の気持ちは当時の、行き場ない学生たちだけの気持ちだけと思います。
昔の先輩たちの無念を思うと切ないです。
付属から大学までよく歌いました。どちらかと言えば卒業してからの方が歌いました。
付属のとき3年間担任だった渡辺哲夫先生は藤村に詳しい方でした。私は今年で70歳になりました。懐かし過ぎますね。
作詞者は私生活を何だかんだいわれるが日本語を操る能力は凄いと言わざるを得ない!
なんと美しい歌声に何とも哀愁を感じます❗
しまさや
島﨑藤村の詩歌が素晴らしいです。特に四番は聞いて欲しいです。
独特な歌い方でこれまたよさがあります。
私も中央大の学生でした。この歌は高校時代から友人、仲間達とよく歌ったものです。懐かしいですね。
歌詞を流用しているので戦地へ送る歌としてはしっくりしない面が感じられますが曲は素晴らしいですね。似たようなコンセプトの歌に斐太高校の「巴城ヶ丘別離の歌」を始め多くの寮歌がありますね。「鈴懸の径」が立教大学とこのような関係で歌われいたというのを聞いたことがありますが成り立ちが違いますね。
従兄が特攻隊で戦死した事を想い出します。
中央大学在学中でした。私は学童疎開で
長野県高遠町にいました。1944年です。
今すかいらーくのモーニングで聴いています。平和は良いですね。
今の平和な時代に生まれた人は、戦争時代を経験した人とは違った平和のとらえ方をされるのでしょうね。
今春から中大経済学部に入学した者です。自分がどういう大学に入ったのか、この唄を聴く度にしみじみと感じます。
長き歴史ある伝統名門校、中央大学の学生になれたことを誇りに思っています。
中央大学の経営者と僕ら中央大生が協力し、この長く続いている伝統を廃れさせないように、中央大学の学員の名に恥じぬよう大学生活4年間を過ごさなければならないと実感しました。
拙い文章すいませんでした。
ウラジミール・プーチン様
何が拙いものですか。言葉遣いは目に優しく、また読みやすく格調高く。
立派なお志を読ませていただき、こんな方がこれからの日本を背負ってくださるのだと、心強く思います。
ずいぶん昔に大学時代を終えた私には、中央大学の法学部生の友人がいました。最近は私の母校も他の大学でも、新しく耳慣れない学部ができたりして、昔馴染んだ学部名をひたすら懐かしむのみです。
こんな時期に大学生になられたということは、大学には行けずにオンライン授業が主流でしょうか?
キャンパスでの学生同士の交流や教える側と教わる側の活気ある授業を思う存分楽しめた身としましては、お気の毒にとしか申しようがありませんが、きっと顔と顔を合わせる時がくることでしょう。そのようにお祈りいたします。
どうかお身体をお大切に、大学生活を満喫なさってください。陰ながら応援し、ご活躍されるのを楽しみにしております。
去年入学した娘が中央大学にご縁が
有ったと感じている母です。
本当に同感ですね。
@@camomille9452 様
2年前にこのコメントを書いたものです。
ご返信頂き本当にありがとうございます。
心がこもった文章、丁重に読ませていただきました。
初年度から2年間ずっとオンライン授業で、人と関わる機会が全くございませんでした。
ですが3年時から対面授業が本格化し、今では友人と楽しい学校生活を送っております。
大学の卒業後は海外就職を目指すため、ワーホリを使って語学力を磨いたのち、カレッジへ進学し永住権にエントリーするビジョンを組みました。
中央大学を選んだからこそ、この進路を見つけることができた。そういった意味で、この大学受験を通して最高の出会いができたと。今では胸を張って言うことができます。
長き伝統ある名門校の一員である意識を常に忘れず。そしてその学員の名に恥じぬよう。
一度きりしかない人生。私が本気でやりたいことを、徹底的に追求する所存でございます。
そして最期永い眠りにつく時、楽しいことや辛いこと全てを含めて心の底から「やりきった」「満足した」そう言えるような人生を。
妥協することなく追い求めていきたいと考えております。
@@Ghost-Hunter-Keema 様
この歌を再び聴きに来て、あなた様からのご返信に気づきました。ありがとうございます。長らく気づかなかったことをお詫び申します。
大きな夢に向かっていらっしゃるのですね。心強く思います。心より応援し幸多かれと祈ります。
水も空気も人心も、すべてが日本とは違うであろう外国での生活をなさるのであれば、健康には一層のこと充分にご留意ください。日本のためにご尽力いただけることを有り難く心に刻みます。
近年あまり目にすることの無い格調高い文章に、あなた様にそなわった教養の深さを思い、多事ながら嬉しく思います。ありがとうございました。
中央大の校歌とは知りませんでしたが、昔から知ってました。良き校歌を得て幸せですよ。人生の誇りなりますね。
私は昭和45年卒で4番まできけて嬉しいです
懐かしさで思い出と涙がでます
今から60年前に初めて買ったレコードです。
音痴の私が3番まで歌詞を覚えた曲です。
4番まであるのは知りませんでした。
今でも知らず知らずに口づさんでます。❤🎉
縁があって去年娘が、中大生になりました。私自身は大学には縁が無かったですが、この曲を知りました。とても心に染みる曲ですね。
お嬢様の幸運を祈ります・・。中大は質実剛健の真面目な大学です。S46・学員。
@@toumasa6537 様
ご返信ありがとうございました!😊
@@NA-de2je 様。有難うございます。戦前からの古い大学ですから、企業の先輩も多く「女性の就職」も好調のようですね。都道府県・市町村の行政職員(地方公務員)も数ではトップクラスです。ご健勝でお過ごしください。76歳福岡在住。
@@toumasa6537 様
シングルマザーです。今一人娘公務員へ向けての勉学をしております。中央大学さんで良かったと思っております😊ご返信ありがとうございました😊😊
@@NA-de2je 様。こちらこそ・ありがとうございました。
中央大学の学生歌とは知りませんでした。別れが学生歌になったのはあまり例を見ないかもしれなせん。
男の分かれの心は良く理解できます。そういう世代です。文語は好きです。
中央大学の歌とは知りませんでした78才恥ずかしい!でも誇りです
作詞が島崎藤村とは知らなかったな! 貴重ですな。
惜別の歌は、他の有名歌手がレコーディングしたものもありますが、緑咲香澄さんの歌が 実際中央大学の学生の間で歌われている歌い方に一番近いと思いました。学生やOBの間では宴の締めに欠かせない歌で、現(=第3)校歌、現(=第2)応援歌、惜別の歌の順に歌うのが定番となっているので、結婚祝いの会でも平気で歌ってしまうという話もあるぐらいです。ただ、作曲者は4番まで歌ってほしいと希望したという話が中央大学が出した歌集の中にありますが、実際には学生の間では3番までしか歌わないのが伝統のようです。なお、その歌集では「予科の歌」の中に分類されて掲載されていますので、他校の例に倣うと、「中央大学予科惜別の歌」が正しいのかもしれません。
コメント有難うございます。知らないことが多々あり、興味深く拝見しました。おかげさまでこの歌に対する知識が増えました。旧制高等学校・大学予科の歌の中には別れの歌が幾つもありますが、生活を共にした学友との単なる別れ、いわゆる再会しようと思えばできるもの。それと戦局が厳しくなり始めた頃から作られたこの手の歌には「(学徒出陣のため)生きて二度とは会えないかも知れない」という思いが感じられるものがあり、藤村の詩を流用したこの歌の歌詞からは前者のように取れますが、作曲者の置かれた立場、当時の世相から後者の方だと思います。
昭和20年に全生徒召集出陣を前にして作られた台北帝大予科の「しづもり深き」という別れの歌がありますが、寮歌を数多くご自身で歌っておられるTakechanさんが「この歌は涙なくしては歌うことは出来ない。本当に悲しい歌である」と言っておられ、5番の所では涙声でかすれるようになり、とても感動したことがあります。惜別の歌も本来はそのような気持ちで歌うのかもしれません。
小林旭さんも歌っています。コロムビアバージョンが、この曲に近いですね!
香澄さんの歌声は心に深く残りました、なかなか良い歌ですよ。色々な場面が目に浮かびます、やはり選らばた香澄の歌声ですよ😃
有難うございます。
惜別の歌、作詞 島崎藤村、中央大学学生歌で卒業式、キャンプ等々、で唄いました、懐かしいです。
日本語がとても美しい詩だと思います。曲も良いし,作詞者・作曲者を見るとなるほどと思いました。現在の歌曲は格好が良いのか分からないけど字余り,早口でしか歌えない,やたらと英語を入れる風潮に嫌気が差します。
この唄を聴くと…遥か42年前の卒業式を思い出します…
私は46年前の卒業生です。
中央母校の卒業式で斉唱しました。戦争に時の学友との別れ歌惜別いい日本語ですね。大学が今問われる中伝統日本語大事ですね。
学生時代を思い出してなつかしい気持ちが甦ってきます。
学生時代の思い出は、良きにせよ悪しきにせよ懐かしいものですね。
ゲンザイの歌は解り😅辛くこの歌を聞くと、良い歌は年月が経つても心がふるえますありがとうございます🎉❤
戦地へ赴く学生に贈る詩ですか、、、、もの悲しい声と歌い方で心情が伝わってきます。
この歌を卒業時の学友との単なる別れの歌と思っている人がほとんどではないでしょうか。
違いますね!
香澄さん、歌声に、ぴったり感動します、
中央大学卒の義兄がよく歌っておりました。胸を打つ静かで心に響く歌です。東京、港区白金の明治学院大学の校歌はここで学んだ島崎藤村の作詞です。
「人の世の若き命のあさぼらけ・・・」で始まるこの詩も静かで温情のこもった心打つ歌です。
素晴らしいね😃 今年八十三に為ります 学生歌😆💕です
日本人の心ですね‥
門田隆将著「康子十九歳戦禍の日記」第九章に作曲者藤江英輔氏が作曲した経緯が書かれています。
東京陸軍第一造兵廠で戦況が悪化する中で勤労動員で働いていた中央大学予科の学生が次々に、
戦地へ赴くその別れに島崎藤村の詩集「若菜集」にある「高楼」の歌詞(我が姉)を(我が友)に替えて、
曲をつけ送別会で歌ったもの。
それを同じ造兵廠で勤労動員で働いていた東京女子高等師範学校専攻科の女学生に伝わり、広がったとのこと。
この本を読まれることをお薦めいたします。
Haruyama Hirokiさん、こんにちは。詳しい解説を有難うございます。今の中央大学の学生でこのことを知って歌っている人はほとんどいないでしょうね。
Haruyama Hiroki 愛の讃歌
愛の讃歌
それは知りませんでした、4番歌詞が有る事もこれで知りました。小林旭も歌っているけど3番迄ですからね
は
教えていただきありがとうございます。書店にて探してみます。
この歌を聞けば 若逝し親友〜中央大卆〜を想い出し 泪滲む。三番では 恋人の 敬子さんの顔が浮ぶ。遠い遠い青春が帰ってくる。
唱歌になってる歌詞の内容を感情を込めて歌うべし
昭和30年代には「惜別のうた」「琵琶湖周航の歌」「北上夜曲」「雪山讃歌」「あざみの歌」「北帰行」
や旧制高校の寮歌など抒情歌といわれる分野の歌がよく歌われていた。
自分が30台の終わり頃転勤で遠く離れる地に行く時同じ職場の同僚逹が送別の時唄ってくれたのがこの歌でした。
惜別の歌 母親の告別式で斎場の方が、ナレーションで語って下さいました、今も、この曲を聴くと胸が熱くなります。
しかし、今、皆さんのコメントを見させて頂くと 意味が違うのですね。
中央大学の第二校歌とか、君が代の第二国歌が 海ゆかば
、何故か心が締めつけられます。
戦前で 友 といえば男のはず。しかし、くれないの唇、みどりの黒髪、これは女性の描写。 TAK SI 様のご説明により、子供のころの謎が50年目にとけました。感謝。
こんばんは。コメント有難うございます。
この歌聴いている
緑咲香澄(みどりざき かすみ)とは、CeVIOプロジェクトのイメージキャラクター、また合成音声のライブラリである。
戦地に行く友を歌った曲
戦争は無益
やってはならない
しかし、戦争は無くならない
愛する家族に健康と安定と幸せを願う
守るは愛のみ
御茶ノ水の最後の卒業生です。
あの頃が昨日のようです。
4年生だけがお茶ノ水に残ったあの年に私も居ました。前年までと比べ閑散としていた校舎。名曲喫茶「ウィーン」は外構のみいまも残っています。
53年の卒業生です。先日、ウイーンの前を通ったら、取り壊されて別の建物になっていました。
昭和18年に、歌われました(~▽~@)♪♪♪中央大学のお茶の水に白門が中央大学手前の右手に日大と明治大学が有りました。後に中央は、八王子へ移転しましたが?
1978年に移転しましたね。
私は、中央大学の法学部 を、司法試験を、取る為に2年留年して、39年3月に、卒業しました! 7年のインターン期間が長くて、弁護士の資格は、取得しませんでした!今、思えば、換えって良かったのかと(笑)御茶ノ水に、明治大学&日本大学があり、その先に、白門の中央大学がありました!現在は、八王子に移転して仕舞いましたが、懐かしいですね(笑)
@@春山知吉-v9n 中大が一番輝いていた頃のご卒業ですね。歴史上最も難しかった旧司法試験合格者の30%以上は中大生でしたよね。40%弱の年もありましたね。私は昭和37年生まれの経済学部卒業生です。大先輩からのメッセージをありがとうございました。
みどりの黒髪を・・・このくだり心に響きます。
旧制高校の学生歌をおじいちゃんたちの集団が交代で舞台に登場し、斉唱する行事がかつてありましたが、
歌う人が限られてきて無くなってしまったことで、一つの区切りを感じたものです。
かつて武道館や日比谷公会堂で開催されていた日本寮歌祭は今も続いています。さすがに旧制卒の先輩方は参加できなくなりましたが、各校の後輩たちによって歌い継がれています。コロナ明けの今年は4年ぶりに「第63回日本寮歌祭」として復活いたします。中央大の方も参加されていますよ。
中大OBのコメントが多いですね。私も1987年経済学部卒業生です。入学時はケインズ経済学の川口弘学長で、卒業時は憲法の川添利幸学長でした。
中央大学の学生の歌と初めて知りました 昭和40年中学卒業の日教室で 惜別の歌を担任が歌ってお別れしてくれました 感動を忘れられない 泣きながら学校を後にしました。
あの曲もこの曲も寮歌でした○イメージ→腰手拭、学ラン隙のない帝大、バンカラ○暫くして学徒出陣も○ダミ声で政治を優しく彼女を○今の学生さんをどうこうではありませんが○若き血が燃える』青春○高卒偏差値偏差値ランク外の私が
感じました○学生さんが気分害されたらごめんなさい
難聴は少しずつ良くなっているようにかんじます。合唱
良い歌ですね学生さんが歌ているのも良いです
同僚の転勤送別会で歌って送り出しました、その後、友は定年に成り
元気してるかな?
知らなかった😭中央大学の学生歌とは🙏知ってたら中央大学を受験してた😢
日本に惜別の歌有り、ベトナムに遠い思い出が有るとても心にしみる、フィリピンで34歳で戦死した祖父の弟を思い出す、彼は昭和20年4月24日、34歳で戦死下、彼らは祖国の為、愛する家族を守るため、海で、大空で、そして陸で誓った、戦争には負けたが、東南アジアは過酷な白人支配から独立できた、彼らと闘った国は日本だけである
だからわが祖国、日本国は諸外国特に非白人国家から尊敬されるのですね。
45年卒業です。この歌の前に
情緒あるセリフがあります。学生のころは4年生が語ってくれましたが思いだせません。ご存知のかたはコメント欄に書いてくれませんか。
是非お願いいたします。
作曲者で、ある意味作詞者でもある藤江英輔氏は、2015年10月23日
に永眠されました。「わが姉」を「わが友」と改作したことはけしかぬという人もおり、小鳩くるみは、「わが姉」と歌っています。しかし、中央大学でレコーディングされる際、島崎藤村の孫にあたる方から、「わが友」とすることについて承諾を得ています。起承転結、藤江氏は四番こそを戦地に赴く友に送りたかったのだと思います。それが、小林旭がレコディングする際、これを恋愛の歌と取り違えたために三番までしか歌われませんでした。この時のレコードが大ヒットし、映画(ヤクザと縁のある体育教師が、学校を辞める時、同僚の女教師を想い浮かべて歌う)にもなったので、中央大学の学生でも、「何で卒業式に小林旭の歌をうたうのか?」と不思議がる者が後をたちませんでした。それも、今では昔話ですね。下記の所に、藤江氏の講演記録が載っています。蛇足ながら、倍賞千恵子さんの「惜別の歌」が、三番までですが、一番よいですね。合掌。
www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/10/2010_04-06.pdf?1556549944628
2010年中央大学「創立125周年」に藤江氏によりこの歌にまつわる公演が行われたとき、氏の後輩であるジャーナリストの門田隆将氏も藤江氏とこの歌のことで、公演をされていますね。
若き夢を通信教育でみたし、大阪支部長の障害の女性 卒業されて社会で活躍されているでしよう😆
まだ、この動画残っていたか・・。
私も昭和45年卒ですが学生時代を思い出す
懐かしいですね!ありがとう(笑)
中央大学の歌とは知らなかった
美しい日本語
もう少し昔の、地方の「旧制高校」の寮歌かと思っていましたが、「昭和19年」東京の中央大学と知って驚きました小林旭さんの歌唱で知っています。
も少し細かく言いますと、「予科」とは大学に入る前の段階にあり高校教育をするところですね。旧制高校と同様なものです。大学により「予科制」を設けている所はそこを卒業すれば無試験で同大学へ進学できました。この歌はその「予科」の生徒が作った死別を含んだ別れの歌でしょうが、小林旭の歌とは真の意味は違うかもしれませんね。
御茶ノ水にあった駿河台校舎を思い出します小林旭の歌が懐かしいです
予科って夜間部ですか?または短大?そういえば、むかし予科練というのもあったな。移転すると、別の大学になるな。
昔は大学へ進学するには、旧制高校を経由するのが一般的でした。大学によってはこの高校と同様な学校を運営するところもあり、それを予科と言っていました。卒業すると優先的にその大学に入学できるのです。今でいう付属高校のようなものです。
専門部というのもありましたな。
『スクール☆ウォーズ』でこの歌を知りました。
歌詞を中国語に訳してみました。
「惜別之歌」
難捨吾友將遠行
登此高樓為惜別
吾友切勿心傷悲
旅途行裝宜備妥
自古以來說離別
是此人間平常事
放眼眺望河水流
猶如夢中淚潸潸
清澈明亮君雙眸
色澤動人君紅唇
烏黑亮麗君秀髮
別後何日能復見
父は、昭和19年中央大予科卒業。そして海軍予備学生志願。
同期生か、後輩が作られたの曲かな?もう他界しているのでわかりません。
とおき
わおきわかれにたえなねて、、そして試練をどのように耐えたのか、、私には不明である。
若くして亡くした息子を思う毎日です。
あなた様に幸あれ😊
大叔父が中央大学、法学出て判事になった頃かしら?
二度と、がくとしゆつじんをおきかくしないようにわたしわかなしくおもいます。
香澄ちゃん、牧水の白鳥の歌もいいよ、月見草の丘なんかも香澄ちゃんの歌ですね、まだいっぱいありそう、
「月見草の丘」とは昭和29年にビクターの山田礼子が歌ったものでしょうか。
詳しくはわかりませんが。鮫島有美子さんの歌が今はは一番すばらしいと思います、遥かに海の見える丘、月の雫を吸って咲くではじまるうたです。
ああそれは「月見草の花」という歌ですね。
小笠原俊二 unjo I
これ図書館の閉館音楽に使われてて、帰りの夜道怖く
はは…ローカル色が豊かですね… どちらでしょうか… 近くの川を教えてください。
戦争を止めさせるのに必要なのは にほん の独立だ。
くせのない歌もいいもんだな。
小林旭さんの歌だとばかり思ってました。
松田聖子も歌ったのだろうか?通教 法学部卒業
卒業式で全卒業生が歌います。
こんな国は亜細亜に日本以外あったか?
ちあき なおみさんが この 歌っていたの 知らなかった じいん と くる。
🐱
ボーカロイドみたいな歌唱ですね。これ、音源の問題?それとも、こういう特異な歌唱ができる歌手なのでしょうか。。。。って、調べたら、ボカロだった。自問自答。
なんとも言えんな~~~~
別れるのは、愛しい女性なんだよね。君という言い方も当時は女性あての言い回し旧制の高校大學では男ばかり貴様が普通だから、
別れるのは戦場へ征く学友です。寮歌等にも学友のことを「君」と表現するのはよく見られることです。
@@tak-si 様
ご指摘ありがと卯ございます。現代的な感性で解釈したりして、時代背景に視点のゆかない投稿でした。
@@和泉昌俊-k2j さん、こんにちは。私は旧制高校が終焉した昭和25年は小学生でした。寮の学校生活とは無縁です。新制高校では逍遥歌を歌ういながらストームを数回経験したことはあります。旧制高校の様子を詳しく知りたくても、人はいないし、書物を主としたものしか無く、隔靴掻痒の思いです。
@@tak-si 様
私は昭和30年生まれです。父親は旧制弘前高校から北大へとゆき話しをねだりました。そして旧制高校に憧れめいたものをもっているんです。ストームやったなんて羨ましいです。ちょっとだけ、お話ししたくなり、返信させていただきました。
@@和泉昌俊-k2jさん、こんにちは。旧制弘前高校といえば平成になっても、創立記念歌が作られているのですね。学校設立地の選定にあたっては青森と競り合って勝った喜びは大きかったと思います。卒業生は東京・京都帝大や近くの東北・北海道帝大へ進んだのでしょう。
緑咲香澄さん歌声が弱々しく聞くに堪えないので申し訳ないが今一度元気を出して歌って下さいお願いします。
別れの唄を元気に謳うのは… ?私は風情があると思います。人それぞれ感性の違いですね。
緑咲香澄さんの歌が、中大学生歌に、一番近い歌い方です。
あなたは、中大卒、でしたら恥ずかしい。
惜別の歌の、気持ちが
小林旭の唱う惜別の歌
体に痛い目を合わせ教える?…「痛い目の慈悲」が必要だろう?
??
あまりのへたくそさにビックリだ。よくこんなのを恥ずかしくもなくアップできたもんだ。
hosey aarre
昔のに返信するのもあれなのですが、緑咲香澄と調べてみてはいかがでしょうか?
私は上手く編集されていると思いますが。
戦場に赴く学友を偲んで送る歌、元気に歌ってどうする気だ?この歌い方がこの歌に一番合っており、歌の趣旨を一番よくくみ取っていると思うが。けだし、名曲、名唱である。
hosey
@@Chu2007pae 同感です。
藤村の元の詩は、嫁ぐ姉を妹が送る歌だから、女性が歌うとこうなる。
この歌聴いている